現在の大峰堂薬品工業株式会社の前身である「行者本舗大峯堂 辻利吉」を創業する。利吉は類まれなる才能と独自の経営哲学で人の心を捉え、多大な業績をあげるも、商売で得た利益で、決して私腹を肥やそうとはせず、行商人たちに還元する一方で、信仰する大峰山龍泉寺や京都の醍醐寺へ多額の金品を惜しむことなく寄付した。
清六は半ば趣味のような形で漢方エキス製剤の研究に着手した。独学で得た知識を学者や原料業者に意見をぶつけ、実地体験した。蓄積されていったものは大峰堂の今日の発展の礎となる。
積極的な設備投資によって、工場から徐々に創業時の面影が消え、近代的なたたずまいを見せるようになったのがこのころであった。当時日本経済は高度成長期からマイナス成長へ屈折した頃だが、漢方エキス製剤や様々な時代背景の恩恵を受け誕生した配置薬市場向けに発売された医薬品を中心に売上高は順調に伸張し、1971年には初めて1億円の大台に乗る1億304万円の売上高を計上した。
東洋医学研究所は、刻み生薬を主として治療に用いるため、生薬原料の産地および品質に対して非常に厳しいものがあった。漢方治療には煎剤を用いていたが煎剤づくりが治療に追いつかなくなり、一部、エキス剤を使用することが検討された。その結果、大峰堂の製品がここで使用されることとなった。
父、清六社長に帝王学を学ぶ傍ら製薬、とくに漢方薬への造詣を深める一方、主に新規販売ルートの開拓に手腕を発揮していた。配置向けの商品開発で業績を伸ばしてきた大峰堂に薬局ルートという新しい道を切り開いたのは成典である。
成典社長の不慮の事故で死去した悲しみの中、周りからの温かい励ましの言葉もあり、社長就任を決意する。打ち出した方針の一つに「社員教育の徹底」があり、社内組織改革を積極的に行った。また、1995年には薬事功労者知事表彰受賞。表彰理由に社業に尽力。極めて温厚で礼儀正しく、社員はもとより取引関係者からの信望も厚い等、素晴らしい人間像を物語った表彰であった。
約150名が収容できる研修ホールと20名程度が収容できるミーティングルームおよび3室の個室があり、大峰堂共栄会の理事会や新年会、夏期講習会、漢方勉強会のほか、社外関係者の研修や地元のコミュニケーションの場など幅広く活用されている。
恒温装置付きで2階建て延べ1950平方メートルある。漢方薬製造用原料を常時保管している。
惜しまぬ努力の末、独自の経営哲学を見い出す。100余の歴史ある漢方哲学を拡大させるとともに、天然物から有効成分を抽出するというコア技術をベースに、医薬品のみならず医薬部外品、化粧品、保健機能食品などの分野にも事業領域を拡大し、国内市場に留まらず積極的に海外市場にも展開を図る。世界の健康創造総合企業を目指すと共に世の人々に貢献したいという想いが溢れた人物像である。
総敷地面積8900坪(約29000m²)の土地に超臨界抽出プラント、アルコール抽出プラント、原料・商品倉庫を保有する工場を完成させた。医薬品事業のみならず素材関連事業などへの異業種への参入も図っている。
京セラ株式会社とKDDIという2つの大企業を創業し、4兆を超える企業体にまで成長させた稀代の事業家「稲盛和夫」氏に学ぶ「盛和塾」に将央社長は出席し、自社の業績の永続的な繁栄と全従業員を幸せに導く方法について学んだ。そして、そこで学んだことを経営へと活かし、日々努力した結果、稲盛経営者賞第3グループ第一位を受賞することとなった。